ネットサーフ日誌:平成8年12月


1996年12月4日 水曜日
  • 日が短くなって、木の葉が色づいてくると、「冬支度」をしなければ、などという考えがどこからともなく頭をもたげてくる。食料や燃料の心配をする必要がない現代生活では冬支度といっても、夏服をしまって冬服を取り出すぐらいしかしない。大きなwalk-in closetがあれば、それもたいして必要がない。

    でも、私の頭の片隅に宿る「冬支度」のイメージはもっと大掛かりで、まず越冬用の野菜を収穫して台所の床下にしつらえてある室(ムロ)に貯蔵することから始まる。ジャガイモ、にんじん、ねぎ、キャベツ、白菜、大根、長芋などが主体である。漬物も大きな樽にいくつも漬け込まなければいけない。秋大根の沢庵、きゅうり、なす、白菜、さらにはニシン漬けや粕漬けも。暖房用の石炭もトン単位で運んでもらわなくてはならない。

    北海道の田舎町でこれが典型的な冬支度の光景だったのは、私が10歳くらいまでだったろうか。1958年前後である。長い冬の夜には、ラジオを聞きながら、本を読んだり、家族みんなでカード・ゲームに興じたりした。夜食によく「葛湯」を食べたのも覚えている。クズではなく、近くのでん粉工場で作った馬鈴薯のでん粉に石炭ストーブの上で沸いている熱湯を注いで混ぜ、砂糖をかけただけの簡単なものだった。

    そういう暮らしも、テレビ、自動車、灯油、プロパン・ガスなどの普及とともに変わっていった。テレビがラジオやゲームに取って代わり、煮炊きはもっぱらガス・レンジでするようになって、石炭ストーブが石油ストーブになった。そして、石油ストーブの上のヤカンは葛湯ができるほど熱くはならなかった。それに、食品が豊富に出回るようになって、店先に並ぶお菓子の種類も増え、葛湯は忘れられていった。秋の漬物作りはその後も長年すたれることがなかったけど、私はとうとう一度も自分で大きな樽に漬物を漬け込むという体験をしないまま家を、北海道を、そして日本を出てしまった。そんなことが今になって妙に心残りに思えてくる。

    こんな風に昔が懐かしく思い出されるのも年のせいだろうか。日照時間が短くなると、生理的に鬱常態に落ち込む人がいる。私の冬支度の虫にもそれと似たような生理的基盤があるのかもしれない、などと取り留めのない連想をもてあそんでみたりする。いずれにしても、私の頭の中には、冬支度の原光景とも呼ぶべきものが確立されているらしい。

    原光景といえば、晩年、もうろくした祖父が、春だから畑を耕さなくちゃと言って、まだ雪深い3月の末に、突如出かけた先は、長年住んだ地元の農場ではなく、最初に入植した山の向こうの日高の農場だった。日高の農場を手放したのは40年以上も前の戦前のことだったし、地元の農場を手放してからも10年以上たっていた。でも祖父にとっては畑起こしが春の原光景であり、その原光景の中の農場は日高の農場だったのに違いない。


  • ホームページへ|日誌インデックスへ|お便りは eueda@hiwaay.net上田悦子